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避難移住の話 (東京から福岡へ移住)

私は、2011年10月に当時6歳(小1)、3歳(幼稚園年中)、1歳4ヶ月の3人の子どもを連れて、   東京都葛飾区から福岡県古賀市へ母子で避難移住してきました。

 

――3.11の地震のこと

その日、東京は震度5の地震に見舞われました。私はバス停で幼稚園バスが来るのを待っていましたが、地面や電信柱が横に大きく揺れて、立っているのもやっとでした。帰宅すると、テレビでは津波で家々が流される光景が繰り返し放映されていました。その映像が目に焼き付いてしまった子供たちは、その後も頻繁に余震が起こるたびに、津波に襲われるのではないかと心配して、大声で泣きわめいて テーブルの下に潜り込むということがその後1か月以上も続きました。

3月13日に福島第二原発が爆発を起こし、首都圏で計画停電が実施されるという報道が流れました。懐中電灯や電池はどこも即日売り切れ、スーパーにはトイレットペーパーを買いあさる人で溢れ、八百屋さんのレジには30人以上の列ができ、納豆や食パンはどこへ行っても売り切れの状態でした。

3月19日には長女の幼稚園の卒園式があり、120人の園児が出席しましたが、欠席したのは2名だけでした。つまり、この時点で、東京でも放射能が危険だと感じていたのは、本当にごく一部の人だけだったと思われます。

3月23日に葛飾の金町浄水場から、基準の2倍以上の放射性ヨウ素が検出され、乳幼児の水道水の使用は中止するようにと報道されました。当時生後10か月の長男が離乳食を始めた頃でしたので、水を買い求めようとしましたが、自動販売機のペットボトルまで売り切れる有りさまでした。

しかし、放射能について悔やまれるのはその2日前の3月21日のことです。私は6月になって、この時に首都圏が放射能に汚染されていたことを知りました。3月21日午前4時に東海村近辺に現れた放射性雲(プルーム)は、南西の風に乗って移動し、午前8時の雨によって千葉県柏市付近へ落下したといわれています。柏市から葛飾区までは約20キロ。その日、長女は新体操の発表会の練習のため、11時半頃、夫の自転車の後ろに乗って、片道約20分の道のりを出かけていきました……。

放射能の汚染分布を決めたのは風向きです。もしも国が原発事故後ただちに放射能分布予測を出していれば、多くの人々が無用な被爆にさらされずに済みました。国民の命を軽視した国の無責任な対応には、今でも憤りを禁じえません。

――なぜ避難したのか

しかし、当時の私は、自分の住んでいる地域がホットスポットになっているとは思いも寄らず、原発事故の報道が一段落すると、天気のいい日には近くの公園で子どもを遊ばせたりしていました。

そんな6月6日のことです。長女が小学校の校庭での体育の時間に、鼻血を出したと言って帰ってきました。今まで鼻血などほとんど出したことのない子が、体操着を血だらけにして、しかも鼻血を出したのは長女以外にもいたというのです。その頃、次女もよく咳をしていて、私も夫も喉が痛かったので、低線量被爆ではないかと心配になっていろいろと調べ出しました。そこで初めて、葛飾区もホットスポットになっていることを知ったのです。

それによると、5月時点での葛飾区の放射線量は平均して0.3マイクロシーベルト/時以上。長女の通う小学校は、7月時点の区の調査でも校庭の砂場から0.42出ていました。被爆は足し算です。

年間1ミリシーベルト以下に抑えるためには、水、土ホコリ、食材からの内部被爆が加わることを考慮すると、外部被爆は0.11以下が望ましいといわれます。

それ以来私は、買い物では関東や東北産以外の食材を求めてスーパーを連日2,3軒ハシゴして周りました。ラベルを細かくチェックして購入するので時間がかかりました。学校の給食は悩みましたが、チェルノブイリでは牛乳からセシウムが多く検出されたとのことで、長女には牛乳は飲まないようにしてもらいました。ちなみにクラスで牛乳を飲んでいなかったのは長女だけでした。

かわいそうですが、子どもたちには草木に触ることを禁じ、外出の際はマスクをさせ、側溝には近寄らないよう道路はなるべく真ん中寄りを歩き、外から帰宅したら、服は脱いで洗濯機に入れ、ランドセルは玄関に置いて部屋には持ち込まないようにしました。掃除機は使わず、家の中は毎日水拭きをして、少しでも被爆を減らせるよう努力しました。

放射能に汚染されていない土地で、汚染されていない食べ物をたべると、体内のセシウムが排出され、体力が回復するというので、夏休みには、インターネットで母子疎開の受け入れを表明していた北海道のご家庭に、子ども3人連れて2週間お世話になりました。見ず知らずのご家庭でしたが、とてもよくしていただき、子どもたちも海で遊んだりして、放射能のことを気にせず、思いっきり羽根を伸ばすことができました。

食べ物に気をつけて、たまに保養に行ければ、なんとかこの地でもやっていけるかなとも思っていたのですが、8月に近所に住んでいた義母が甲状腺ガンで急逝しました。放射能との因果関係はわかりませんが、3月下旬に発症し、4月に切除したものの7月に再発。そして8月に逝去という、早すぎる死でした。しかも8月の夏休み中に、同じ小学校や幼稚園のお友達が何人もマイクロプラズマ肺炎にかかりました。水や食べ物から体内に取り込んだセシウムは100日程度で排出されますが、肺に入ってしまうと排出できないといわれます。真夏に突然起きた肺炎の流行は、私には放射能と無関係とはとても思えませんでした。

そんな折、9月の初めに葛飾区長と市民の意見交換会が区の主催で開かれました。私も参加し給食には西日本の食材を使うよう求めましたが、これに対しては風評被害につながるし、葛飾区は福島の塙町と姉妹協定を結んでいるので、福島や東北の食材を使わないということはできない。給食食材の放射性物質検査については、測定器を導入する予定はないし、つもりもないと一蹴されました。経済優先のこの区長のもとでは、子どもたちの健康は守れないと失望し福岡への母子移住を決意したしだいです。

――避難移住してきて

福岡には親戚も友人もおりませんでしたが、空港や博多からの便の良さと、自然が豊かで、保育園の待機児童がいないという点で古賀市を選びました。初めて産直の野菜を見たとき、その新鮮さと価格の安さに驚きました。白砂の海岸に、子どもたちは大喜びでした。「放射性物質は?雨にぬれても大丈夫?」と子どもたちに聞かれ、「もう大丈夫よ」と答えられることが嬉しくて、幸せでした。

とはいえ、見ず知らずの土地で、仕事、家事、育児すべてを一人でこなすのは本当に大変でした。夫が来福するのは一か月に一度。保育園での慣れない生活に、次女は「東京に帰りたい」と言い出し、夫が東京に帰る前夜は、いつも大泣きしました。私は心がくじけそうになると、カレンダーを見て、夫が 来福するまでの日数を指折り数えながら、一日一日を何とかやり過ごす毎日でした。

今は避難者同士のつながりや、地元の友人知人も少しずつ増え、また、ペーパードライバーを返上して中古車を購入してからは行動範囲も広がり、福岡での生活も徐々に楽しめるようになってきました。しかし、見えない将来設計、家族の分断、経済的負担、放射能に対する認識の違いによる精神的孤立など、避難者を取り巻く状況はそれぞれに厳しいものがあり、まずはこうした避難者の状況を一人でも多くの地元の方に知っていただくことが必要ではないかと思われます。

――本当の支援とは

被災者のために支援したいと考えるなら、ガレキを受け入れるのではなく、見えない放射能と日々闘っているお母さんや子どもたちを、豊かな自然のもとで保養させてあげてください!きれいな九州のお米や野菜を、被災地に届けてあげてください!ガレキの受け入れで得をするのは一部の企業と政治家だけで、遠く本州から九州の食材を購入している多くのお母さんたちの希望を奪ってしまうことを知ってほしいと思います。

安全としか言わない国を信じていたら、私は子どもたちをもっと被爆させていたかもしれません。自分の身を守るためには、自分で情報を集め、選択することが必要であると痛感しております。

【古賀市在住 山浦 久美子】

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環境啓発団体 地球のめぐみは、福岡県NPO・ボランティアセンターや福岡市NPO・ボランティア交流センター、福岡市人権啓発センター、新宮町公益認定団体に登録し、活動している任意団体です。地球にやさしい、人にやさしい、そして財布にもやさしい暮らしを皆様にお伝えし、今日からできることをしていきましょうと、エコロジーな暮らしをひろめる活動(セミナー開催、会報発行など)をしています。応援よろしくお願いします。

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One comment

  1. こんにちは。
    お久しぶりです。
    一緒に区長との意見交換会に行った者です。
    実は先日、こども病院で
    息子の甲状腺のエコー検査を行ったところ
    小さな嚢胞が複数あると言われました。
    また、3ヶ月後に検査をすることになりました。
    携帯も変えたのでご連絡出来ず
    こちらから、ご報告させて頂きました。

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